歴史観 過敏症候群

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わたしには、とある苦しみがある。

大げさに言うと、『伝統的分裂症』とでも言おうか、
または『歴史観過敏症候群』とでも言おうか。

シナリオを書いている、ということや、
元々歴史、特に日本史に興味があることから、
自分なりに調べたりするのだが、そうするとこの歴史過敏症候群
の症状が、出始めるのだ。
これは意外に自分の意思に関係なく、気分を落ち込ませる。
なにか、年齢的な問題(女性でよくいう更年期障害)で、気分が
落ち込んでいるのかもしれない、と思うほどに。

学校の教科書に載っているようなことは、強いバイアス(フィルター)の掛かった
選定事実と思わざるを得ず、それ以外、あるいは教科書に数行でもない数語しか
載っていないようなことが、どうしても、気になるし、調べたくなってしまう。

坂上田村麻呂という征夷大将軍の行いについて、調べていくと、
阿弖流為(アテルイ)を大将とする、東北の民との苛烈な戦いの様子が、それなりにわかってくる。

阿弖流為軍は強く、中央の朝廷軍の攻撃を、幾度も凌いだ。

それを懐柔作戦を用い対抗しようとしたのが、田村麻呂である。
田村麻呂の行いには、その人望を持って人々(東北の人々)を魅了していったという
記述も多いが、中には東北の人々の生活圏のすぐそばに柵を張り、急しつらえの
生活空間を作って、わざと生活上の摩擦を生じさせ、それをきっかけに攻め入った
という記載も見られる。(インディアンを殲滅したアメリカ人に近いものを少し感じる。)

この闘いの結末について、
美談に書かれているものが多いが、
わたしはその点について、一面的では、決してないと思っている。
阿弖流為の処刑について、田村麻呂は反対したとか、
田村麻呂は阿弖流為に東北をおさめてほしいと思っていた、とか。
そういう美しい話が多く書かれている。

事実は、真実はもうわからない。
そこは、仕方ないところだ。

わたしの先祖は父方は東北の田舎の出で、
母方は神奈川の武家だった、と自分が30代の後半になって
知らされた。
これはなかなか自分にとって、厳しい情報だった。
小さいころからこういうことを知っていて、あまり疑問なども
抱かず、受け入れていれば問題はなかったが、もう四十も近い年齢に
なった男が、こんな大事な話を聞かされると、どうしても
いろいろと真実を知りたくなってしまう。

父も母もかなり特殊な家庭だったので、先祖の話を子供に
あまりしたいない、という背景があったようだ。

母系統をどうしても詳細に知りたくて、親戚に聞いたが、
関東大震災で、家系図が消失してしまい、詳しいことはわからない
状態になってしまったと言われた。
そして、なぜ、神奈川から宮城県に移住してきたかについても
わからない、という。

体半分が東北、かつて中央から蝦夷地と呼ばれたところにあり、
体半分が関東、かつて坂東平野と呼ばれたところにある。

これは歴史をみていると、なかなか辛いことです。
お前が勝手に過敏になっているだけだろ、といわれてしまっても
仕方ないのでありますが、しかし、過敏になる場面が不定期に
生じてしまうのも、事実なんです。

サントリーの社長の東北差別発言がかつてありました。

『仙台遷都など阿呆なことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。
文化的程度も極めて低い。』
こんな発言を聞くと、わたしの気持ちは揺さぶられるのです。

東日本大震災の時の民主党政権の大臣が宮城に派遣された時の宮城県知事への
態度、なども当時、話題になりました。

歴史的アドバンテージが九州や近畿にあることは、間違いないです。
神話に地名が載っていて、その土地に神が降り立ったとまで書いてあるんですから。
(ニニギノミコトの天孫降臨)
建国記念日の制定の元になっている神武東征など、
過去と現在が繋がっていることの伝統的アドバンテージというものは絶大だと思います。

しかし人はそれをカサに着て、鼻にかけてしまう場合もある。
それで上に書いたような現象が起こってしまう時がある。

関西の年配の方は、箱根の山より向こうには猿しかおらへん、といまだに言うらしいですし、
河北新報のその名の由来など、差別でしかありません。

物事を解りやすくするには事柄を限定的にして考えると考えやすい、ということを
確かにそうだ、と思ってその手法を場面場面で用いてきました。
人間とは、と考えるより、日本人とは、と考えた方がわかりやすい。

しかし、その日本人というのを考える時、実はある場所を境界線にして、
(その境界線は白河以北と言われた、白河なのかもしれません)日本人、とひとくくりに
するべきではないのではないか、と思わざるを得ない時が、どうしてもあるのです。

その線は沖縄と九州の間にもあるかもしれない。
その線は北海道と青森の間にも、もしかすると、あるのかもしれない。

一民族一国家という考えに、心底から共鳴できない自分と、
自分の先祖もまた一か所で集約できない、ジレンマ。

それらの関係をどう整理したらいいのかを考えていくと、
どうしても、気分が、暗くなるのです。

世界ではスペインの一部がスペインではないと主張したり、
国名を元々の名前に戻そうとする国(フィリピン)があったり、
アイデンティティーに対する具体的な行動が、幾つか火種の
ように扱われています。

わたしはこれらのことが火種には思えないんです。
人間本来の主張、または人間そのもの、とまで言ってしまいたくなるような、
とても人間らしい行いに思えるのです。

伝統的分裂症と自称するわたしが国籍を置いているこの日本で、
『アイヌ新法』と呼ばれる法律が、2019年に成立しています。

わたしはこの法律をもろ手を挙げて賛成している訳ではありませんが、
しかし一方で、すべて否定する考えも持っていません。

神話に地名が載っている人々。
その人々と神話に地名が載っていない人たちの戦い。

わたしは自分なりにこの歴史的な出来事を、ゆっくり解釈して
何かの形にしていきたい、そう思っているのです。

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