西部氏の言葉

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亡くなった西部邁氏の追悼番組が、ユーチューブで流されていました。

そこで彼は、写真の言葉を言っているんです。

『生きるに値するものをシャカリキになって探していないと、
じきに、その人間は合理的に自殺するように、なってしまうのだ。』

彼は若い頃、妹さんを事故で無くし、ノイローゼになったのだそうです。
落ち込んだ彼を心配した親は 彼に本を読ませたそう。
その時、ドフトエフスキーの小説を読んだそうです。

その中に合理的に自殺する人間が出てくる。
その人間は、生き方が徹底して合理的で、最後、自殺する時も、
首をくくるロープが滑った方がいいから、ロープに蝋(ろう)を塗り、
滑るように準備する。そして言ってみれば『合理的に』自殺したんだそうです。

若い頃の西部氏はそれに衝撃を受けた、と言っています。

どう、衝撃を受けたのか。
この人はいつも言説にある程度の余白を残すので、聴いている方が
想像しないといけません。

おそらくですが、『生き方』が『死に直結』することの確認がされ、
それを薄々感じていた若き日の西部氏は、そういう自分が思っていた
ことの確認がとれたことでの、衝撃を受けたのではないか、と私は
聴いていて思いました。


しかし、西部氏自身が、
人の手を借りて、多摩川にて、
極めて合理的に、亡くなった。その事実を知った上で、
この言葉を聞くと、わたしは何とも言えない思いになりました。

西部氏は、
生きるに値するものをシャカリキになって探せなくなったんだと、
わたしは思います。
西部氏は、それが出来なくなったことが、全部とはいいませんが、
少なくとも自殺の要因になったのだと、思います。


・・・・どんな人間であれ、
例えば頭が悪い人間でも、
例えば感受性が極端に低い、いや、感受性を持っていないのかという位の人間でも、
例えば荒っぽく、すぐになんでも力でねじ伏せるような人間でも、
例えばあらゆる感覚が一般的な範囲からずれているような人間でも。

生きるに値するものをシャカリキになって探せなくなったら、
・・・・・死にたくなるのだろうか。


考えました。ぼくなりに。

そんなに突き詰めて物事を考えない人でも、
もうホント、惰性で生きているような人でも。

生きるに値するものを探せないと、
かなり活力を失い、死にはしなくとも、
『死ぬのを待つだけの状態』になるのではないか、って。


実際死んじゃう所まで行っちゃうのは、その人を構成する、
色々な要素の重なりによって、起きるのでしょう。


多分、いまぼくがやりたいことってのは、
この『生きるに値するものを探すことを諦めた人』を、
諦めた状態から脱却して、一緒にやってこう!!っていう。
そういうことをしたいんだろうなって、思います。

少なくともぼくは何となくですが、『生きるに値するもの』を
ぼんやりと見つけ、それの輪郭を徐々に捉えることが出来ている、
そんな実感が少しずつ、出てきました。
勘違いかもしれないですが。

その人にとっての、
生きるに値するものは、どんなものなのか。

それを探す作業に、ぼくは付き合いたい。
男でも女でも、それを見つけられてない人が、探せるように、
同伴したい。

西部氏の言葉を、自分の方へ、その意味を手繰り寄せてみた時、
ぼくは、こんなことを思いました。

なにを恰好つけたことをよくもまあ、といま思い直し、
文を消そうとも思いましたが、
まあ、別に今更恰好をつけて恥ずかしがる歳でもないから、
いいか(笑)と思いました。


ぼくの周りにいる、
『生きるに値するものを探す』ことをやめた仲間よ。
どうか、ぼくを使ってくれ。
ぼくを使って、なにかのきっかけを得てくれ。

ぼくは君らに近づくと、言葉選びが下手だから、
なかなかに失礼な言葉を、吐いてしまうときがあるから。

だから、
どうか、そっちから、ぼくを使ってくれ。

両目を使って、一緒に探そう。
一緒になって、探そう。

『生きるに値するもの』ってやつを。

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