基本的に必要としているもの
こちら、前にもこのブログで書いたかも
しれませんが。
どこかのサイトで拾ってきた、
(わたしたちが基本的に必要としているもの)
というものです。
それは、
■自律性
■価値観に沿った言動をする
■つながり
■遊び
■精神的な交流
■祝福すること、嘆き、悼むこと
■身体的な快適さ
があげられています。
自分は思いつきでこれも必要じゃないか、
というものとしてメモで、
◆自然との関わり
◆なりたい姿をずっと目指す(理想をもつ)
◆善友
◆仏教
◆歴史観
◆先祖
ということも書いています。
令和7年の現在。これらのことで必要なはずなのに
持ちにくいものとしてあるのは、
■つながり
■精神的な交流
じゃないかな、と思います。
今週、木、金と2日職制としての研修というものを受けて
きたのですが。
その研修の場では基本的にハラスメントに注意する、
問題を起こさない教育をするのですよね。
それは現代はそういう流れになっている(それがなぜか
深堀する必要があると個人的に思っています)から
そういう教育をするのですが。
平たくいうと、そういう気遣い交流をしても、なかなか
深い関係は結べないんですよね。
まあ、そこまではっきり断定はできませんが、そうなるには
時間が掛かったり、深まらないまま終わる可能性が高まる
んだよな、と思います。
そもそも繋がれるか、繋がれないか、会話の段階で気を使って
いるわけですから、精神的な交流などには、至らないわけですよね。
ここに書かれている、
精神的な交流のキーとして、
・美 ・調和 ・秩序 ・インスピレーション ・平和
とありますが。
これらのことを語り合う仲間、友、知人、先輩後輩を持つ人は
いま決して多くはないのではないかな、と思うんです。
平和について語ろうとした場合、少し現実的な話をしただけで
眉をひそめる女性っていると思います、
正直にいいますが、わたしが何人かの女性からそういう態度をされた
ことがあるんで。
相手が戦争をする準備をしている可能性を探りそれに備える動きを
する、なんてことすらきな臭いと感じる人もいます。
軍事の実態を知ることすら嫌だ、という人もいます。
そんな人とはちょっと平和について、語り合えないですよね、実際。
美について語るには、美の定義を話し合うことになるのですが、
それについても西洋的な美ばかりを金科玉条のごとく崇め奉る人が
います。美を客観的に評価するというのは、とても難しいと思うのですが、
西洋であればもうなんでも美しい!素晴らしいわあ、素敵だわあ、と
目を輝かせている人と、美の定義について話せるとは思えません。
この基本的に必要としていることについて、
必要として、それを得る前段として、それについて(誰かと語り合う)
ということが、もう、令和の現代では難しい世の中になっているのではないかな、
と思ったりもします。
仙台メディアテークで開催されている(哲学カフェ)に何度か参加しても
わたしの意見はファシリテーター(司会みたいなもの)から議題から外されていく、
膨らまさない方向の扱いしか受けない。
研修会で同席したひとたちと議論をしても、どのテーマを話しても深まることは
あまりない。でも金を得る場で役職についてしまったものですから、一定の頻度で
そういう場を設けられ、交流していくしかない。交流の場で話をしても、
あまり得るものはない。
自分が回りを上から目線でみているという話ではなく、
人と関わろうとしても、そんな簡単なものではないのだな、という風に
感じる、と言いたいのです。
孤独であることを恐れ、
必要な 人間が基本的に必要としているものを集めようと、
人と関わろう、関わろう、としてもみても、
それはそんなに簡単なものではない と。
しみじみ思います。
自分の手書きで書いた 仏教 。
わたしは後半生、できれば、すぐにでも
仏教にいまよりずっとウエイトを置いて、かなりの時間をかけて
学んでいきたいのですが、その為には名古屋に移住してそちらで
生活することが必要になるのです。
それはなかなかにハードルが高いことであります。
その環境が仙台にないのか、模索していくことにしますが、
なかなか難しい気もしています。
皆様。
皆様の人生に必要なものは、過不足なく揃っているでしょうか。
わたしの人生では、まだまだ不足していることが多いです。
その不足していることを埋める為に生きているのか、
そうでないのか。
でもその不足していることを埋めるために生きているのかもな、
と思うことがあります。
皆様は、いかがですか。
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