悲しみ と 恐怖 と(日常に潜む孤独)
先ほどあったことを忘れないうちに書いておきます。
金を得る場から帰宅途中、
とある近所のアパートの前を通ろうとしたら、
絵の様に路駐している車が居て道を塞いでいたので、
通れませんでした。
(わたし、車を運転していました)
わたしの前にいる、絵で言う 左上の車は路駐しているのですが、
ハザードをあげ人は乗っていません。
わたしが通行できなくて、困ったので、
右に路駐している車には人がいたので、
軽くぷぷっとクラクションを鳴らしても、
一向にこちらを向こうともしないので、
仕方ないので、窓を開けて路駐している右の
車に声をかけたら、表情一つ変えずに、
『そっちの車線の車に言えよ』
と言って、それを言ったらまた表情一つ変えず
下を向きスマホを見出して、
こちらの目線を一切無視して、自分の世界に
入り込み出しました。
自分が路上駐車していたのだとしたら、
仮にどちらの車だったとしても、
あ、すいません、と一言いって車を移動させて
通れない人を通してあげます。
それを一切するつもりがなく、
そっちの車線の車に言え、の一言を言って
あとは自分の世界に浸る、っていう人間が
いることに対して、
自分は
悲しみと恐怖を感じました。
悲しみは、
マスゴミが喧伝する作り話でなく、こうして
現実にこんな嘘みたいな人間が存在している
という事実に対する悲しみ。
恐怖は。
仮にこういう人間と、わたしが金を得る場で一緒に
働かないといけなくなった場合のことを想像すると
純粋に恐怖心を覚えました。
こんな人間が部下に配属されたら、平気で嘘をつき
そうだし、人間としての良識なんかが決定的に
欠落していそうなんで、そんな人間とは信頼関係
なんて作れないだろう、と想像しました。
自分はその道を通れないので、バックして
切り返し、別の道で帰りましたが。
別の道で帰るすがら、この二台の車が別角度から
見えたので、様子を見たのですが、
なにも変わらずそのままの状態でそこに道を塞いで
路駐していました。
色々な人が居るなあ、と。
思いながら、帰宅し、このことを冷静に、
客観的に、
妻に伝えたところ、
『あなたのクラクションの鳴らし方も激しかったり
したんじゃないの?言い方も荒っぽかったんじゃない
の?その路駐していた人、びっくりしたんじゃない?
もしかして。』
と、言われ。
わたしは妻にこの出来事を話したことを
とても後悔しました。
わたしが妻に抱く不信感というのは、
やっぱりこういった日常の、
リアクションから生まれているのだな、と
しみじみ思った瞬間でした。
なにかのトラブルがあったとき、
こういうことがあったのだよ、
と身内に話したら、(どうせあなたにも落ち度が
あったんでしょうよ)ということを言われる。
こういうことが、そういえば
なんどかあったよな、とわたしは思い返し、
久しぶりに(これが孤独だ、こういう瞬間が
孤独を感じる瞬間だ)と強く、強く
思ったのでした。
トラブルになりたくないので、わたしは
路駐の人に穏やかに話し掛けたし、
クラクションだって、軽く押して
気づいてもらえる目的で、静かにならして
います。
まあ、そんなだからなめられたのかもしれませんが。
路駐の異常な日本人と、
孤独を感じさせてくる妻。
この二つの存在に、
わたしは辛い思いを抱かざるを得ない状態に
なったんです。
こういう時こそ、仏教です。
仏教の教えよ。
自分を救ってください。
そう思い、教えを紐解いてみたくなっているところです。
さあ、
ブッタの教えに答えを見出してみたいと思います。
では。
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