終焉の地
ウインドウズ10あたりから、パソコンを起動したときに、
世界の名所や自然の風景を画面に大きく映し出すという機能
がそなえつけられていまして。
流れで、世界各所の森や山や海。
歴史的な建物などを目にすることになるのです。
ふと思うことは自分の終焉の地。
まあ、大嫌いな白人国家でわたしが死ぬことになる
可能性はほぼ0%でしょうけど、しかし北欧では
安楽死が合法になっている国もあるので、そちらで
のっぴきならない事情から、死を選択することになる
可能性もあるかもな、なんて思ったり。
死について、思うこととして、
若い頃よく思った、
(希死念慮のようなもの)はかなり無くなりましたが。
存在したことについて忘れられていく辛さ については
年齢と共に増していっている気がします。
人は二度死ぬ、といいます。
肉体的な死が一度目。
人々から忘れられた時、それが、二度目の死。
二度目の死を迎えた時、人は本当に死ぬのだと
誰かが書いたものを読んで、底知れぬ 正に、底が知れないくらい
どどどどどどどーん、と深く、
深く落ち込んだ日があったことを覚えています。
それなりに名を成した人ですら、すぐに忘れられる世に
おいて。
わたしは娘にすらすぐに忘れられ、
金を得る場(いわゆる会社)では退職と同時に忘れられ
(退職したその日に忘れられる勢い)、
住処では仙台という土地に愛着がありながら人間的に
強い愛着がある人間は年々年々減り、おそらく自分が年老いた
時分にはおそろしい程の孤独が僕を苛むでしょう。
自分史を書きたいという意欲を削ぐ理由はわたしが自分史を
書いたところで、そんなものに誰も興味を持たないのではないか、
という思いがあるからです。
これら一連の思いを抱く自分。
これら一連の思いを抱かせる今の、日本社会。
おそらく世界でもそういう国が増えているのでしょう。
こんな思いを抱いて、パソコンの起動時の画面を見てみると
世界のあらゆる場所が映しだされている。
孤独は孤独なりに、
どこにいても孤独なのだろうから、
いっそ、愛した仙台を離れ、
どこか異国で終焉を迎えるのも手か・・・などと。
思うことが増えてきました。
孤独というもの、
それはやっぱり恐ろしいほどに悲しいものです。
人間の色々な力の元、源を奪う 恐ろしいばかりの負の
引力があります。
何か最近、力の源が奪われた状態を感じていて、
筆が進まないのはそのせいかな、と勝手に(かつけて)いる
自分がいます。
終焉の地。
仙台で死ぬのか。
世界のどこかで死ぬのか。
どこでも同じなら仙台でいいじゃないかとも
思いますし、
同時に孤独というものの恐ろしさも最近、
やけに肉感をもって、やけに強く感じてしまうのです。
齢を重ねるということはなかなかに辛いことです。
死に場所のことを想像することが こんなに実感を伴った、
直接的な取引かのような感覚を伴うとは。
辛いものです。
世界の名所や自然の風景を画面に大きく映し出すという機能
がそなえつけられていまして。
流れで、世界各所の森や山や海。
歴史的な建物などを目にすることになるのです。
ふと思うことは自分の終焉の地。
まあ、大嫌いな白人国家でわたしが死ぬことになる
可能性はほぼ0%でしょうけど、しかし北欧では
安楽死が合法になっている国もあるので、そちらで
のっぴきならない事情から、死を選択することになる
可能性もあるかもな、なんて思ったり。
死について、思うこととして、
若い頃よく思った、
(希死念慮のようなもの)はかなり無くなりましたが。
存在したことについて忘れられていく辛さ については
年齢と共に増していっている気がします。
人は二度死ぬ、といいます。
肉体的な死が一度目。
人々から忘れられた時、それが、二度目の死。
二度目の死を迎えた時、人は本当に死ぬのだと
誰かが書いたものを読んで、底知れぬ 正に、底が知れないくらい
どどどどどどどーん、と深く、
深く落ち込んだ日があったことを覚えています。
それなりに名を成した人ですら、すぐに忘れられる世に
おいて。
わたしは娘にすらすぐに忘れられ、
金を得る場(いわゆる会社)では退職と同時に忘れられ
(退職したその日に忘れられる勢い)、
住処では仙台という土地に愛着がありながら人間的に
強い愛着がある人間は年々年々減り、おそらく自分が年老いた
時分にはおそろしい程の孤独が僕を苛むでしょう。
自分史を書きたいという意欲を削ぐ理由はわたしが自分史を
書いたところで、そんなものに誰も興味を持たないのではないか、
という思いがあるからです。
これら一連の思いを抱く自分。
これら一連の思いを抱かせる今の、日本社会。
おそらく世界でもそういう国が増えているのでしょう。
こんな思いを抱いて、パソコンの起動時の画面を見てみると
世界のあらゆる場所が映しだされている。
孤独は孤独なりに、
どこにいても孤独なのだろうから、
いっそ、愛した仙台を離れ、
どこか異国で終焉を迎えるのも手か・・・などと。
思うことが増えてきました。
孤独というもの、
それはやっぱり恐ろしいほどに悲しいものです。
人間の色々な力の元、源を奪う 恐ろしいばかりの負の
引力があります。
何か最近、力の源が奪われた状態を感じていて、
筆が進まないのはそのせいかな、と勝手に(かつけて)いる
自分がいます。
終焉の地。
仙台で死ぬのか。
世界のどこかで死ぬのか。
どこでも同じなら仙台でいいじゃないかとも
思いますし、
同時に孤独というものの恐ろしさも最近、
やけに肉感をもって、やけに強く感じてしまうのです。
齢を重ねるということはなかなかに辛いことです。
死に場所のことを想像することが こんなに実感を伴った、
直接的な取引かのような感覚を伴うとは。
辛いものです。
この記事へのコメント