オンエアを聴いて『 お尻侍 + 塵 』
昨日、なんとかオンエアを聴きました。
スマートフォンで、リッスンラジオというアプリを使い
ワイヤレスイヤホンで聴くという、テクノロジーに依存
した聴き方全開で(別にそれがどうしたということはないですが)、
無事、聞けました。
お尻侍は、次の紙芝居ものへの課題は残ったものの、
作品としての出来は決して下位、劣位ではなかったな、
という客観的な評価をしました。
オンエアを聴く折り、思い入れをもって聴きつつ
冷静に客観的に分析的に聴いてもいるのですが。
まずコメディーとしてちゃんと成立しているし
そこにおとぎ話的示唆が織り込まれていて、
(ルッキズム問題)(健常者と障がい者の関係)
(先祖と私(わたくし)の関係性)
(社会の仕組みが個人に与える影響)
なんて部分を、聴いて頂いた方々が考えてもらえる
トリガーになろうとしている構成にはなっているのかな
と感じることが出来ました。
昔の日本というものは全てではないですが、
今ほど歪められた力で外圧が掛かっていないケースが
多いので、その姿(社会や個人)は、純粋にこの日本という
国の在り様を、反映したものが多いと思います。
すると、そこに(現代の問題点が何か)のヒントがたくさん
ちりばめられていると思っています。
なぜなら、今はまさに(歪められた力で外圧が掛かっている)
状態ですから。
その状態と過去との比較は、違いは明確なのです。
そんなことを思わせてくれた、作品でした。
いやあ、なんともうれしかったです。
詩の 塵(ちり) 。
こちらは若干暗いというか哲学的というか、
万人に好かれるものではないとわかりつつ、オンエアしました。
宇宙の歴史からしたら100年にも満たない人生など、
塵のようなもの、というところから始まるこの詩は。
50年という人生を過ぎ、おそらく中間折り返しよりも
もっと多くの人生を過ごした自分にとり、もう以前より
ずっと身につまされる課題、もっと言えば目の前にある
課題になってきています。
名刺も何にもなくて。
肩書も名前も、なにも個人を表面上表すものがない場合に。
自分は何を以て(もって)、自分とするのか。
今の自分にとり、ラジオドラマ制作に関わる執筆・編集や
その他の小説を書く事、ですが。
しかし、それは自分の娘や妻にすら見向きもされない
代物です。
今年、私の作品を楽しみにして下さっている方の存在から始めて
リアクションがあり、反応がわかりましたが、
15年近く活動をしていて、ようやく、です。
反応があれば続けて、
無ければやめるのか。
そうではない。そうではないが、どこか虚しい。
虚しければやめればよいだろう、お前の作品など
死んでからゴッホの様に評価などされず、一瞬で
無いと同じものになる。
生きている間だってそうだ。
一瞬、ラジオを聴いてくださっている方の
お耳汚しをするだけの、ほんのひとジャンルのエンタメ
のはしくれでしか、ないのだ。
そういう思いを抱いては消し、抱いては消しを
繰り返すのですよね。
しかし結局、止めはしない。
誰から強制されたのでもなく、自分で好んでやっている
ことであることは純然たる事実なので。
人が忘れる、とか宇宙から見たら塵だ、とか
そんなものは関係なく。
自分がやりたいからやる。
まずはそれなんだ、と気づくわけです。
やりたいからやり、それが残ろうが残るまいが
自分が出来る範囲で、深める。
それでいいのだ、と 今は思っています。
そんな気持ちを詩にしたのが、この 塵 という
作品でした。
たまたま生まれたこの地球で、日本という場所に住み、
仙台という地から住居を移したことのない、視野の狭い
中年男ではありながら。
今は、やれることをやりたい、という意識がある。
それはやはり、素晴らしいことなんだろうと。
思っています。
オンエアを聴くと、いいもんです。
こんな色んな思いを確認することが出来るので。
皆さん、聴いてくれたのでしょうか。
聴取率 というラジオ版視聴率みたいなものは、
調べるのに費用が掛かることもあり、わからない
のが現状です。
どのくらいの人が聴いて下さったのか。
どんな感想を持ってくれたのか。
わからないですが、いつか、
知れるようになってみたいものです。
ありがとうございました。
スマートフォンで、リッスンラジオというアプリを使い
ワイヤレスイヤホンで聴くという、テクノロジーに依存
した聴き方全開で(別にそれがどうしたということはないですが)、
無事、聞けました。
お尻侍は、次の紙芝居ものへの課題は残ったものの、
作品としての出来は決して下位、劣位ではなかったな、
という客観的な評価をしました。
オンエアを聴く折り、思い入れをもって聴きつつ
冷静に客観的に分析的に聴いてもいるのですが。
まずコメディーとしてちゃんと成立しているし
そこにおとぎ話的示唆が織り込まれていて、
(ルッキズム問題)(健常者と障がい者の関係)
(先祖と私(わたくし)の関係性)
(社会の仕組みが個人に与える影響)
なんて部分を、聴いて頂いた方々が考えてもらえる
トリガーになろうとしている構成にはなっているのかな
と感じることが出来ました。
昔の日本というものは全てではないですが、
今ほど歪められた力で外圧が掛かっていないケースが
多いので、その姿(社会や個人)は、純粋にこの日本という
国の在り様を、反映したものが多いと思います。
すると、そこに(現代の問題点が何か)のヒントがたくさん
ちりばめられていると思っています。
なぜなら、今はまさに(歪められた力で外圧が掛かっている)
状態ですから。
その状態と過去との比較は、違いは明確なのです。
そんなことを思わせてくれた、作品でした。
いやあ、なんともうれしかったです。
詩の 塵(ちり) 。
こちらは若干暗いというか哲学的というか、
万人に好かれるものではないとわかりつつ、オンエアしました。
宇宙の歴史からしたら100年にも満たない人生など、
塵のようなもの、というところから始まるこの詩は。
50年という人生を過ぎ、おそらく中間折り返しよりも
もっと多くの人生を過ごした自分にとり、もう以前より
ずっと身につまされる課題、もっと言えば目の前にある
課題になってきています。
名刺も何にもなくて。
肩書も名前も、なにも個人を表面上表すものがない場合に。
自分は何を以て(もって)、自分とするのか。
今の自分にとり、ラジオドラマ制作に関わる執筆・編集や
その他の小説を書く事、ですが。
しかし、それは自分の娘や妻にすら見向きもされない
代物です。
今年、私の作品を楽しみにして下さっている方の存在から始めて
リアクションがあり、反応がわかりましたが、
15年近く活動をしていて、ようやく、です。
反応があれば続けて、
無ければやめるのか。
そうではない。そうではないが、どこか虚しい。
虚しければやめればよいだろう、お前の作品など
死んでからゴッホの様に評価などされず、一瞬で
無いと同じものになる。
生きている間だってそうだ。
一瞬、ラジオを聴いてくださっている方の
お耳汚しをするだけの、ほんのひとジャンルのエンタメ
のはしくれでしか、ないのだ。
そういう思いを抱いては消し、抱いては消しを
繰り返すのですよね。
しかし結局、止めはしない。
誰から強制されたのでもなく、自分で好んでやっている
ことであることは純然たる事実なので。
人が忘れる、とか宇宙から見たら塵だ、とか
そんなものは関係なく。
自分がやりたいからやる。
まずはそれなんだ、と気づくわけです。
やりたいからやり、それが残ろうが残るまいが
自分が出来る範囲で、深める。
それでいいのだ、と 今は思っています。
そんな気持ちを詩にしたのが、この 塵 という
作品でした。
たまたま生まれたこの地球で、日本という場所に住み、
仙台という地から住居を移したことのない、視野の狭い
中年男ではありながら。
今は、やれることをやりたい、という意識がある。
それはやはり、素晴らしいことなんだろうと。
思っています。
オンエアを聴くと、いいもんです。
こんな色んな思いを確認することが出来るので。
皆さん、聴いてくれたのでしょうか。
聴取率 というラジオ版視聴率みたいなものは、
調べるのに費用が掛かることもあり、わからない
のが現状です。
どのくらいの人が聴いて下さったのか。
どんな感想を持ってくれたのか。
わからないですが、いつか、
知れるようになってみたいものです。
ありがとうございました。
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